自分自身がどこからやってきて死んだらどこへ行くのか、それがはっきりしたら助かります。
浄土真宗のお寺に行ったことがない、南無阿弥陀仏を称えたこともない。そのような人は仏にはなりません。
助からない私、その助からない私が助かる。それを確かにするために浄土真宗のお寺があります。そのために仏事をします。いちばん大切。
お寺で法話を聞くときには「はじめての心得」を忘れないでね。ほんとうの言葉だけがあなたを救います。
はじめての心得その一
聞こえたか。聞こえないか。阿弥陀様の呼び声が聞こえたら助かります。
はじめての心得その二
納得した。納得できない。納得して助かるなら阿弥陀さんいりません。
はじめての心得その三
ウソはつかない。わかったはわかってない証拠。一度も死んだことがないのに有るとか無いとかいうな。有るも無いも邪見です。
はじめての心得その四
やぶれかぶれにならない。浄土も地獄もあるもんか…やぶれかぶれは自分で自分を見捨てた証拠。自分を見捨てる私を見捨てないと追いかける阿弥陀様。
はじめての心得その五
知ったかぶりをしない。「それ知ってます」は聞いてない証拠。疑ってます。
はじめての心得その六
何事があっても平然としていられる私になる。
はじめての心得その七
浄土をもらった。この喜びはたまらない。真のやすらぎが恵まれます。
滅びていくものは真理ではありません。浄土真宗のお寺に行って浄土真宗の教えを聞き信を得ないとただ単に死んでいくだけです。何度死んでも仏にはなりません。これを解決するために浄土真宗があります。その話しを聞くことができるのが浄土真宗のお寺です。ことばこそ仏さま。
悲しみそのものになったら悲しみの底が抜けます
さみしさがさみしさそのものになったらさみしさの底が抜けて本当のひかりがありがたくなります
わたしにしか聞こえてこないけれど本当の言葉が聞こえたら助かるのはわたしです
永遠の真理を聞いて永遠の今を生きる。
「お前はほとけになるぞ」ということばを聞いて助かった助かったとよろこんでます。「もう心配するな」という阿弥陀如来のことばを聞いて「ああそうか、心配する必要なかった」とよろこんでます。
助かった人の話しを聞いたら助かる。
死んだら助かるのかと思っていたらいまこの瞬間に助かると聞いたのでよろこんでます。
生きることと死ぬことが解決したらたすかります。たすかった人の話しを少しでも聞いたら助かります。その人のことばが聞こえたとき(瞬間)に死ぬことと生きることが問題なくなります。助かったら問題なく生きていけます。